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大日本帝国陸軍は1929年(昭和4年)地理的な条件や秘匿の容易さなどから、大久野島を化学兵器の生産拠点に選び出した。
ジュネーブ条約によって禁止されていた毒ガス使用ではあったが、陸軍はそれを秘密裏に製造し使用していた。
したがって毒ガス工場は秘匿が保たれ、島の外からは山や土嚢などにより各施設を隠すことが容易だった、且つ日露戦争で使用した弾薬庫などをそのまま使用できるとして
この大久野島を毒ガス生産工場の拠点としたのだった。
そしてこの大久野島は、陸軍発行の地図からも消された。
ここでつくられた毒ガスは、北九州の曽根というところに運ばれ、迫撃砲弾や航空機からの投下爆弾に装填され、戦場へと送られていった。
長崎に投下された原爆がはじめは小倉を標的にしていたのは、米軍がこの毒ガス工場の存在を重視したからだという説もある。

毒ガスは、この大久野島以外にも神奈川県でも製造されていた。
旧日本海軍の相模海軍工廠跡が神奈川県寒川町にあります。
ここでは大久野島に匹敵する毒ガス工場が存在し、数年前に現在建設途中(2012年8月現在)の圏央道(相模縦貫道路)寒川インター工事中に毒ガスが発見され、工事が延期になったという事態にもなった。
ほかにも、平成16年に神奈川県の平塚市でも毒ガスが発見され、合同庁舎建設が遅れるということもあった。
毒ガスは、今もなお、現代に影響を残す負の遺産として扱われている。

では、実際にはどういった毒ガスがつくられていたのか。
この大久野島では「イペリット」という毒ガスの生産に重点が置かれました。
もともとはマスタードガスと呼ばれ、第一次世界大戦のイープル戦線で初めて使われたため、イペリットと呼ばれる様になった。
陸軍呼称では、黄1号甲、乙、丙、黄2号という呼び名で呼ばれ、ドイツ式イペリット、フランスイペリット、ドイツ式不凍イペリット、ルイサイトがその種類となっている。
ほかにも赤1号と呼ばれていたヂ・フェニールシアンアルシン、茶1号と呼ばれていた青酸、緑1号と呼ばれていた塩化アセト・フェノンという毒ガスが製造されていた。
これらイペリット、「びらん性毒剤」は揮発性が低くいったん土壌、草木、屋根等に付着すると強力な毒性を発揮しながらゆっくりと蒸発する。
毒剤が皮膚に付着すると2〜3時間後に強度の疼痛を覚え水泡が発生する。
また、強力な浸透力により呼吸器を通って体全体に大きな障害を引き起こす。
赤1号ヂ・フェニールシアンアルシンは刺激性のくしゃみ剤で、これを吸入すると血液中の酸素吸入機能が麻痺してしまう。
青酸には中毒性があり、塩化アセトフェノンは、肺組織をおかし、肺水腫状態にとなり死に至る。
撒布されると緑色のガスとなり、比重の重さにより盆地や掘穴に音もなく流れこんだ。
研究所跡
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上の建物は、毒ガス製造時代の研究室と薬品庫として使われていました。
下の建物は、検査工室で、毒ガス製品の管理や機密書類の保管の他、毒ガスの検査などが行われていました。
大久野島に休暇村が整備された頃、これらの建物は一時、宿泊施設として利用されていたこともありました。
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製造工員
工員は、ゴム性の防毒マスクに衣類、手袋に長靴などで完全に覆われていた。
しかし、イペリットはその隙間から浸透し、皮膚や目を侵し結膜炎や肺炎、気管支炎等を引き起こした。
有効な治療法はなく、皮膚炎に対する普通の治療で火傷と同様に扱っていた。
そして気管支炎については「できるだけ栄養のあるものを食べる」以外ほとんど治療法はなかった。
当時、イペリット製造部門では被害者が多く出たため、その被害にあった工員は催涙ガスの製造部門へ移されたが、ここでも製造工程全般にわたり、塩酸ガスにより目をやられる事が多かった。
工員の待機所には洗眼の用具が備わっていたが、この作業員以外の人の手を借りなくては洗眼することはできなかった。
中国における毒ガス
大久野島の毒ガス生産総量は6616t、国外に持ち出されたのはその約半分で日中戦争では約1万の死者が出たといわれている。
敗戦後、日本は条約違反していた毒ガス使用を隠すため、中国の畑や川などに投棄した。
その投棄により、戦後に田畑を耕した人や下水道工事をした人約2000人が被害に遭い、また、
掘り出された瓶や缶を調査している時に被害に遭い、そして工事中には毒ガス缶が地中で破裂し、毒液が漏れ出ている事に気づかず皮膚に付着したりした。
現在でも、日本はもとより中国でも被害にあった人々は苦しんでいる。

毒ガス処理
敗戦後、大久野島と周辺には約3000t以上の毒ガスと16000発の毒ガス弾が残っていた。
これは、世界中の人間を殺戮できる量に匹敵します。
条約によって使用が禁止されていた非人道的兵器。
使用の問題化を恐れた日本軍は証拠隠滅を図りました。
毒ガス容器や設備を解体した瓦礫など、近くの海に大量投棄を行った。
その海域には以後数年間生物が生息しなかった。
そして時を経て毒ガス容器や瓦礫は、漁業者の魚網にかかって大量に引き揚げられた。

占領軍による毒ガス処理
戦後、毒ガス処理はオーストラリア軍によって行われました。処理法は主に3通り。

海洋投棄
帝人三原工場の社史「帝人の歩み」によると海洋投棄は毒液1,845トン、毒液缶7447缶、クシャミ剤9,901缶
催涙剤131缶、60キロガス弾13,272個、10キロガス弾3,036個。
毒ガスが船によって高知県の土佐沖まで運ばれ船ごと海底に沈められたりまた、海洋に投げ込まれて遺棄された。

埋没処理
一部の毒ガスと毒ガス製造設備が焼却処理されました。
毒性を消すため工場の建物の内部も火炎放射器で焼却されました。
長浦毒ガス貯蔵庫に残る黒い焼け跡は、そのとき火炎放射で焼かれた跡です。

島内埋没処理
比較的毒性の弱い毒ガスや発炎筒は島内の防空壕に埋没された。
長浦毒ガス貯蔵庫跡
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長浦毒ガス貯蔵庫跡。旧陸軍は、1929年から終戦まで、この島でひそかに毒ガスの製造を行っていました。
主な製品はイペリットとルイサイトで、いずれも「びらん性ガス」と呼ばれ、皮膚をただれさせる性質を持ち、年間1500トンに及び、製造期(15年間)の総生産量は」6616トンと言われています。第二次世界大戦が終わると同時に進駐してきた連合軍の指示のもと、日本人作業者によって、この島にあった毒ガス工場や製品を1946年から約1年間かけて薬品で消毒したり、太平洋の沖に沈めたり、火炎放射器で焼いたりして処分しました。
この建物は、それら毒ガスの貯蔵庫の一つでした。
コンクリートの内側が黒く焼け焦げているのは、当時、火炎放射器で焼却した跡で、そのすさまじさを物語っています。
当時、建物の前には高さ3〜4メートルほどの小山を築き、コンクリートを迷彩色で塗ることで、海上からは見えないようにしていました。
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