大久野島(おおくのしま)
OKUNOSHIMA ISLAND

The History of Poison Gas in Okunoshima Island.
The Tadanoumi production facility was established on Okunoshima Island in the fourth year of the Showa era(1929).
This facility belonged to the Secondary Tokyo Military Arsenal,and was used to produce poison gases for the Japanese Army.
it was then destroyed in 1945 at the end of the war,by U.S.forces.
Various kinds of toxic gases,signal barrels,pipes,and balloon bombs were produced at this plant,but priority was given to the production of Ipelit gas.
広島県竹原市忠海(ただのうみ)町から沖合い3kmに位置し、瀬戸内海に浮かぶ周囲4.3kmの島。
最高地点は100メートルあり、島に建つ高圧鉄塔が一際目を引く小島である。
旧軍時代に建設された道路や水道施設等の一部は改良し、
環境省が管理する公園施設として広く一般に利用されています。


近年では、野生のウサギが多く生息し、ウサギ島とも呼ばれている。
ウサギは、戦後島外の小学校から持ち込まれたウサギで、8羽のウサギが繁殖し現在では300羽にもなるという。
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島には一際目立つ特高(鉄塔)が建っている。高さ226メートル。日本一の高さを誇る。
瀬戸大橋が完成するまでは、四国に供給する電気の要の線路でもあった。
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1934年(昭和9年)に瀬戸内海国立公園に指定されている。
日露戦争前、軍事上重要な都市であった広島と呉を守る為に芸予(げいよ)要塞の一角としてここ大久野島に
北部、中部、南部のエリアで合計22門の砲台が設置された。
芸予要塞は瀬戸内海の忠海海峡と来島海峡の線に設置された大日本帝国陸軍の要塞で
砲台は大久野島と南の愛媛県小島に、また忠海町・冠崎にも造られました。
1897年(明治30年)に建設が始まり、その後、豊予(ほうよ)海峡の豊予要塞の建設が始まり、
存在意義を失った芸予要塞は1924年(大正13年)に廃止された。
北部砲台跡
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砲台跡。ここは日露戦争が始まる前の1902年に設置された芸予要塞の大久野島保塁北部砲台跡です。大久野島島内には、北部、中部、南部の3ヵ所の砲台が設置され、合計22門の砲台が置かれていました。ここの跡地には12センチ速射加農砲が4門置かれていました
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火薬庫跡
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火薬庫。砲台の弾薬や火薬を保管する倉庫で、その頃5人の番人がいたそうです。
周りの壁はレンガ造りですが、屋根には火薬が爆発した時、爆発が抜ける様簡単に造られていました。毒ガス工場時代にも、化学兵器の製品置き場として利用されました。
壁にかいてあるMAG1の文字は「MAGAZINE 1」の略で、朝鮮戦争当時に、この建物をアメリカ軍が弾薬庫として使ったときにかかれたものです。
倉庫の海側の土手は、海や対岸から見えない様に人工的に盛り土をしています。
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