現在の大久野島 帝人社史によると毒ガスは処理は以下のやり方でされていた。 「クシャミ剤のような有毒姻剤が大量に残存していた。これらは大久野島所在の壕内へ埋没し、 コンクリ−トで堰堤を造って密閉し海水とさらし粉の混合物を注入してその処理を終わった。 赤筒や発煙筒を壕内の奥に入れ、入口をコンクリ−トで密閉、毒の中和のためにさらし粉と海水を壕内に大量に注ぎ込んだ」 しかし、砒素を原料とするクシャミガス(赤筒)は経年とともに容器は腐食し50年もすれば原料が流れ出る事は容易に想像できます。 現在、島の管理を行っている環境省は、それでも安全だという見解をみせています。 日本の毒ガスを使用したということは、1984年(昭和59年)まではほとんど知られていませんでした。 化学戦の実態は慎重に秘匿され、旧軍関係者以外の日本人は殆ど事実を知りませんでした。 1984年日本化学戦実施に関する資料が報道されました。 以来、日本の毒ガス兵器の研究開発は旧陸軍科学研究所(東京)、製造は大久野島、充填は曽根(北九州市)運用と訓練は旧陸軍習志野学校といった日本の化学兵器の構図が明らかにされています。 今、大久野島は国民休暇村として開発され国民の保養地となり、往時を偲ばせるものは僅かに砲台跡、発電場、毒ガス貯蔵庫等数少なくなっています。 この島で毒ガスを製造した過程で多くの犠牲者を出すに至ったことは誠に痛ましく、毒ガス製造の悲惨さを訴え、恒久平和を希求いたします。(大久野島毒ガス資料館) |
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